深夜テンションで書いた大学中退した屑の嘆き

 こんにちわ。この記事を開いてくれてありがとう。ここに書き記すのは、何か楽しい話でもないし、ためになる話でもない。何か救いがあるとか、教訓とか、何もない。男が失敗した話を、もやもやとした気分にまかせて匿名の海に投げたかったから書いた文章だ。それでも読んでくれたならうれしいし、なにかリアクションがあればもっとうれしい。

 

 

 

 高校三年生の夏休み中だった。単身赴任の親父が家に帰ってきていた。そして毎度のことながら、母と喧嘩していた。よく細かいことで喧嘩する夫婦なのだ、だが両親は理性的な人たちだった。いつも喧嘩をしても後腐れは、少なくとも表面上はなかったし、暴力が出るようなことも、暴言もきいたことがなかった。

 だがその日の喧嘩は少し問題があった。夜中だったのである。高校三年生の息子が隣の部屋で寝ていた。俺はすさまじくイライラしていた。

 「喧嘩するなら外でやってくれ。」

そう言った。

 俺の記憶する限り、その夜を最後に父と母が同じ部屋で寝ることはなかった。父は荷物をかかえ、近場にあった祖母の住む実家に帰った。両親は、俺が高校を卒業した年の4月から夫婦ではなくなった。

 俺は、両親に本当に感謝しているし、健やかに幸せに生きて欲しいと願っている。だから両親のことを擁護させてもらうが、二人とも頑固だったのだ。細かいことでぶつかることは多かった、人として、当然両者とも良い点もあれば、悪いところもあった。仕方のないことだと、俺は思った。さすがに18にもなって、両親が夫婦ではなくなるということに、必要以上にショックを受けることもなかった。

 だが、両親は否定したが、あの時の俺の一言がなければどうなっていたのか、という気持ちは、いつまでも残った。

 

 自分の話をそろそろしよう。俺は公立の高校に通っていた。大学進学率は100%だ。当然、俺も大学に行くと決めていた。

 しかしながら俺は、高校3年生も終わる時点で進路がなかった。浪人である。第一志望の大学の一般を記念受験しただけ。情けない話だが、親に迷惑かける気満々だった。

 あんまり浪人時代に話すことはない。浪人して、予備校に入り、そこそこに勉強した。そして、運がよければ第一志望に受かるくらいの頭で受験して、結果俺の運がいいということがわかった。第一志望は、理系専門の国立大学である。自分で言うのもなんだが、俺はもしかしたら頭がいいのではないか?と思うくらいにはうれしかった。

 しかしながら、俺は浪人時代に病気にかかった。メニエール病である。知ってない人に向けて説明すると、めまいがして、耳が悪くなる病気だ。初めての発作は、病院送りになったこともあったが、以降俺は予備校帰りにたまにくらくらするなぁと感じるくらいで、耐えきれないほどでもなかったし、難聴もひどくなかった。ちなみに、何の因果か親父も高校生時代に同じ病気にかかっていた、おかげで親父は左耳が弱い。遺伝はしないらしいので、変な縁もあるものだ。

 そうして俺は1浪で見事第一志望の大学に入学を決めた。

 入学式がはじまった。家族一同で来ている人達もいてびっくりした。渡されたパンフの中には大量に婚活系の広告があり、理系の専門大学という場所の現実をむざむざと教えて来てくれて、苦笑いが尽きなかった。式が終わり、面倒なお話とか、サークル紹介やら、記念撮影やらが終わり、俺は慣れないスーツを着て最寄り駅に向かおうとした。

 その時から、俺のメニエールは強烈に悪化した。激しく視界がゆれ、まっすぐと歩けない、猛烈な吐き気におそわれ、体温は下がる。家に帰るまで、2回乗り換える必要があったが、1回電車に乗り、もう1度乗るのは諦めた。タクシーにゆられながら、俺は一緒に住んでいた母親に電話した。

 そして1年のための講義が始まったが、唐突にめまいが起きる、ということが頻発した。家からそのまま出られない日もあった。

 俺はやりたいことがあった。言ってしまうと俺は重度のゲーマーなのだ。当時の俺は、アーケードゲームにドはまりしていた。サークルに入ることもなく、俺は空いた時間にゲーセンに通っていた。金も必要だった。体がこんな状態でも、友人の誘いでバイトもやった。

 同期の連中に仲のいいやつらもいた。単に席が最初近かっただけだったが、昼飯を食ったりもした、が講義も終われば即帰るだけの自分だ。それ以上に仲良くなることはなかった。とくに、人の陰口をたたくやつがいた。そいつだけはどうしても好きになれなかった。

 長々と説明したが、結論から言うと俺は講義に出なくなった。そして単位を落とした。無論、2年に進級することは出来なかった。 テストに向けて助け合うほど特別に同期と仲良くなることもなく、サークルのコミュニティに頼れるわけでもなく、講義にも出ないのだ。当然だった。俺はいわゆる真面目系屑だった。

 俺は何もかもに失望していた。浪人こそしたが、必要な時に受験勉強をする程度には自分が義務感のある方だと思っていた。大学でやる勉強も、こんなにもつまらないものなのかと嘆いていた。俺が高校の頃敬愛していた理科系部活のオタクたちは、あんなにも楽しく物理や化学を話していたのに、まわりにいる学生は、おどろくほどつまらない話しかしていなかった。(これに関しては明らかに自分が変に期待しすぎていただけだが)

 俺はこの時気付いた、自分は勉強がしたいからしていたのではなく、受験を終わらせれば、何かが楽しくて、そして自分が好き勝手にしていいという免罪符が得られると勘違いしていただけだと。

 そして年度末になり、両親が俺の現状を理解した。母は、がっかりしていたが、昔から俺には甘いというか、過保護というか、優しいというか、そういう人なので、強くは言わず、ただ来年頑張ろうと、病気を早く治そうと、そういう話をしていたと思う。

 話は変わるが、両親が離婚して以降、取り決めがいくらか決まっていた。その中に、月に1回親父と祖母と夕食を、さらにもう1回、親父と夕食をとる、というものがあった。

 3月。俺の留年が決まった月。俺は親父と夕食をとっていた。そこそこに1件目で食ったあと、親父と一緒に串カツ屋に入った。親父も酒がすすみ、色々な話になったと記憶している、詳しい内容は覚えてないが。だがお説教のような話になった時に言われたこの一言が、俺の心をつかんで離さなかった。

「お前には、失望した。」

自分でも驚くほど、衝撃を受けたのを覚えている。複雑な気持ちすぎて、自分でも言葉に出来ない。ただ、すぐにでも親父の前から姿を消したくて、しょうがなかった。家に帰り、母に何かあったかときかれたが、何も言えなかった。そのあとすぐ、親父から母にメールが来た、言い過ぎた、と来たらしい。それでも俺は、何も言えなかった。大丈夫だと、そう言った記憶がある。

 俺は親父を尊敬している。親父は大学を博士まで修め、現在までずっと大学で、研究者として生きていた。(ちなみに文系である)俺にとって、親父は憧れのようなものだったと思う。俺も、無意識のうちに研究者になるものだとばかり思っていた。だから学部も理学部にしたくらいだ。

 親父は、俺の進路のことについて、とくにうるさい人ではなかった。1浪までは許すとか、そういうことは言っていたが、進学だろうと就職だろうとお前の人生だから好きにしろと、そういうスタンスだった。

 その親父に、失望の2文字をつきつけられたのが、存外つらかった。

 もう一回俺の1年生が始まった。体調は相変わらず不安定だったし、講義中、まわりに知っている顔は当然なかった。内容もまるで楽しくない。それでも所詮1年生でやる内容だ。俺は単位を取得し、2年になり、学科に入った。化学科だった。しかし、俺がもったのはそこまでだった。前期の講義を受ける途中、ぽっきりとすべてのやる気が折れ、俺はまた講義を受けなくなった。

 後期を休学することになった。

 数か月、バイトをして、暇な時間にゲームをしたり、ゲームで知り合った友人と遊んだりする日々が続いた。だが、それでも俺は悩んでいた。さすがに、このまま復学して、まともに自分が勉強すると思えなかった。

 俺は母や母の友人の勧めで就職を支援する施設に行くことにした。内部にハローワークが併設されていて、カウンセリングや、セミナーが受けられる、というものだった。

 そこで俺は休学期限まで、セミナーを受けたり話を受けた。だが、やはり皆、大学を卒業した方がいい。そういう言葉が出てくるものだった。悩みに悩んだ末、結局俺は復学を決めた。情けない話だが、高卒という学歴に恥ずかしさもあった。

 そして復学した。苦痛だった。前ほど孤立していたわけではなかった。まわりの学生たちと、話す瞬間はあった。だがそれまでだった、食事は常に一人だった。講義の内容は、より一層自分にはわからなくなった。まわりに助けを求めることも、しなかった。プライドだけは一丁前に高かった屑だった。ふとした瞬間に、自分の同期はもうすでに4年になり、卒業研究をしている、という事実が心を鉛玉のようにしていた。

 そうして、前期が終わり、後期の半分が過ぎた時点で、折れた。笑ってしまうほど、あっけなかった。ある日、大学に行かなくなった時、母にどうしたのと尋ねられた。もう行かない。そうこたえた。母の表情は思い出せない、ただ、そう、と言っていた。そうだった気がする。

 いくら大学に行っても、自分ではまるで勉強しなかった。レポートは最低限以下にしか書かなかった。出典も適当だった。ウィキペディアコピペだけはしないというプライドはあったが、死ぬほど参考にした。情けなかった。

 まわりの2年生たちは、まだ成人すらしてないのに、自分は22になっていた。そして、それよりも、彼らが熱心に化学を学んでいる姿が、あまりにも心を砕いた。すでに、アカデミックなものが、自分は嫌いになっていた。新しい知識を得るという喜びはあっても、自ら学び吸収する気力はなかった。探求する意欲も。あれほど嫌悪していた、つまらない連中以下の、プライドだけは高い自分が、以前にも増して憎くてしょうがなかった。最低限の単位を取ろうという義務感すらない自分は、いったいなんのためにこれまでやってきたのか?何も見えなくなった。これまでお金も苦労もたくさんかけた両親に対する申し訳なさや、自分が、本当に大学に行きたいのかも真剣に考えなかったという後悔、気持ちがどうにかなっていた。そして、もはや父のように立派にはなれない、そんな絶望がそこにあった。

 その年の3月、俺は退学を申し出た。教授や担当していた教員には、1年、進路を決めるために、休学しては、と提案された。正直どっちでもよかったし、休学するだけだったら自分は、バイトして適当に過ごしてしまうだろうな、と思った。だがもうそれでもよかった。休学を選んだ。

 そうして休学が始まった。自分の趣味はこれまでの時間で変遷し、アーケードゲーマーからPCゲーマーになっていた。いわゆる流行りのesportsである。俺は引きこもりがちになった。眠れない日々が続いた。昨日は1時に寝て、次の日は2時、その次は3時で、次の日はイライラして眠れない。そんな時間が1か月続いた。

 話は変わるが、母は数年仕事で行き詰っていた。長い間勤めた職場を解雇され、新たな職場を求めたが、ことごとく合わなかった。俺と同じくらい、母も消耗していた。俺がこんな情けない状態なのも悪影響だっただろう。荒れる母を見て、申し訳なさが加速していた。

 そして母が折れた。母は、実家に帰って地元で過ごすことを決めたのだ。俺は1人で東京に残ることに決めた。20年以上、ずっと母と一緒にすごしてきた。その生活の終わりが、俺の門出でもなく、こんな形にしてしまったことが、本当に悲しくて、申し訳なかった。

 そして俺は1人になった。休学している身で、親父の支援を受けて、バイトを適当にこなして、何も特別に進路を進めずに、気ままに過ごした。仲のいい友人たちに、本当のことを言えなかった。何もかもが申し訳なかったが、気楽だった。楽しかった。

 そして休学が終わった。俺は晴れて、大学生という身分を捨てた。中学生のころから受験勉強をして、最終的に苦労して得たであろう、第一志望。親にも迷惑をかけまくったというのに、それでも捨てた。未練はなかった。ただ、申し訳なかった。

 進路は決まってないという俺を、最後まで心配しつつも、根は明るいからなんとかなると励ましてくれた担当教諭さんにも。

 そうして、俺は今、空っぽになった。4月の時点でバイトもやめた。今は、大真面目にニート状態だ。はやく進路を見つけないといけないし、バイトもやって短期的な収入も得なければならないが、もはや何もしたくない。25歳の3月、つまり来年の3月で親父は俺に対する金銭的な援助を打ち切る、という約束になっている。

 何かしたいことはないかときかれたら、なんとなく、PCパーツをいじりたいとか思う瞬間はある。そういうバイトをしようかとも思うが、CPUのベンチマークの記事を見て、わからない数値を見てげんなりしていた。

 就職はもっと困難だ。まわりの就職した友人たちが、自分からみたら殺人的な環境に放り込まれているようにみえて苦しかった。休日が週に1日しかない、行きたくもない飲み会に付き合わされる、家に帰れるのが22時…そんな生活が自分に出来ると、思えなかった。

 かと言って、死ぬ勇気もなかった。親父はわからないが、母は俺が死んだらものすごく悲しむのがわかっていた。それだけは嫌だった。さっきも言ったが、両親には健やかに、幸せに生きて欲しかった。こんなことなら、自分という存在そのものがなかったことになれば、むしろ楽だ。

 なんでこんな情けない自分に出来上がってしまったのか、そんな後悔が、心を鷲掴みにする瞬間が、定期的に訪れている。

 ここまで書いておいて言うのもなんだが、それでも俺は幸せだと思う。ゲームは、大好きだ。最近は、自分がプレイするだけでなく、プロチームや選手を応援するのが楽しい。彼らのプレイをどこまでも応援したい。もちろん、自分でゲームをするのも幸せだ。それにこんな自分でも、一緒に遊んでくれたり話してくれる仲間がいる。ゲームだけじゃなく、かつてのアーケードゲームを通じて気がある仲間が出来た。彼らとは、今でもつるんでいる。もっとも俺以外就職して時間がどんどん合わなくなっているのは悲しいが…両親も、夫婦という形ではないが、それぞれ自分の人生を歩んでいる。父は退職したら、趣味で古い日本の日記の解説と現代語訳をして本にすると語っていた。母は、苦戦しているが地元で新しい仕事を見つけて奮闘している。(ここまで書けばわかると思うが恋人なんぞいない。)

 

 

だから あとは、自分が、自分の人生に向き合い、生きることを覚悟するだけ。

でもそれが、あまりにも嫌だった。今は、それだけ。

 

 

今書きたいことは、これで全部だ。思いのほか長くなった。もしあなたが全部読んでくれたなら、とてもうれしい。何かコメントをつけてくれたなら、もっとうれしい。別に罵詈雑言でもなんでもかまわない。読んでくれて、ありがとう それでは

 

2019年7月10日